アメリカ駐在生活 はやく日本へ帰りたい

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アメリカ駐在生活 770日目 弟が死んだ日

 

 

先日夏の一時帰国から米国に戻ってきた。

 

前回の帰国からそこまで長い時間はたっていないものの、激務で体調をやや崩してから初の帰国であったので、これまで以上に楽しみにしていた機会であった。

 

本当に来週自分が死ぬかのように移動しまくって人に会いまくってきた。

地元の友達やお世話になった元上司、特別仲良くしている職場の後輩らに会ってきた。

家族とも旅行に行ってきた。

 

20代の自分だったらビビって使えないくらい沢山のお金を短期間で使ったけど、

海外駐在で疲れきった心を癒すためなら何のためらいもなかったし、実際最高に満足できた。

 

おれはアメリカで全く娯楽に金を使っていないのでお金は溜まっているし、今や不動産投資と駐在パワーによって使ったお金はすぐに取り返せるのだから。

 

これが30代の力か。。。我慢してきた甲斐があるぜ。。。

 

日本での物価をいちいちドル換算して、

 

「このクオリティでこのお値段!やすい!、安いよ日本、安すぎコスパ良すぎ!!おれはなんて素晴らしい国に生まれたのだ」

 

と感動するまでが今日の米国駐在員の定番セットである。

そんな楽しいリラックス時間を過ごす中で弟の話を家族から聞いた。

 

 

弟が死んだ日

 

家族を嫁実家において、自分一人で実家に帰った。

 

 

1週間かけてさんざん地元の友人らと会い散らかしたのちに、最終日に両親と末の妹と4人で夕食を共にした。

 

 

キムチ鍋だったが、家庭で食べる日本の食材はなぜだか優しく、身に染みてうまかった。

 

 

その夕食の場で実家の両親から弟が亡くなったことを聞かされた。

 

 

具体的な時期を書くことは避けるが、すでに弟が死んでから数か月が経過していること、

 

家族だけで葬儀を行い火葬まで済んでいることをこの日知った。

 

もちろん私がアメリカで働いているときの出来事だ。

 

この事実を聞いたとき、2つの感情が自分の中に沸き上がった。

 

一つは唐突に起こった出来事が頭で理解できても、身体で理解できず動転し

何とか理性の理解に体の理解が追い付こうとしている感覚。

 

二つ目は「あぁ、ついにこの日が来てしまった」という感覚。

 

 

弟の火葬前の写真を見せてもらったとき、本当に彼がこの世からいなくなったことを理解し、自然と涙が流れて落ちてきた。

 

まるで自分の一部を失ったかのような感覚だった。

 

 

なぜ家族は自分にこの事実をタイムリーに教えてくれなかったのか?

 

家族としては米国に家族といる自分は気軽に帰ってこれないであろうこと、

 

突然のことで家族も初めての事務的対応に追われ余裕がなかったこと、

 

弟がなくなるに至った経緯は他人から見るとやや複雑であり、

 

結果的には弟自身による自死であったため、会社での立場も考え周囲や私に伝えなかったと、

 

上記のような話。

 

私はシンプルに自分が弟見送りの場に立ち会えなかったことが死ぬほど辛かった。

 

30年以上兄弟として生きた人間は、自らの判断によりあっという間にこの世から消え去っていた。

 

弟は私同様、勉強やスポーツ等の正統派の道ではあまり頑張らなかったものの、私の影響で音楽やギター、スケボー、海外ワーホリを楽しんでいた。私のバンドでも何度かライブしたことがある。

 

やや内省的であり、音楽や映画に人並み以上にはまってひたすらアート・サブカルコンテンツを楽しみ、このような趣味を通じて自分自身を探求していた。

 

小学生の心のまま大きくなったようなピュアさがあったので、社会のルールやしがらみに合わせうまく自分をアジャストすることができないタイプであった。

とにかく金やスケジュールの管理ができないタイプであった。

 

地元を離れ、社会でしぶとく生き残り、人並み以上にお金を稼ぐことや0から資産を築いていくことに奮闘していた私は度々帰省のたびに弟に厳しく接していた。

 

彼のルーズさが家族や私の友人に迷惑をかけたことも一度や二度ではなかったからだ。

 

かなりきつい言い方で弟を傷つけることもあったと思う。

それは世の中で負けないよう歯を食いしばって生きているつもりだったので、弟がちんたら生きていることが悔しく、自分に余裕がなかったのもあったと思う。

(実際彼は誰かに迷惑をかけようとしたり、傷つけていたわけではなく、ただ自分が思うままに生きているだけだった)

 

生活を改善するべく様々な紆余曲折があったが、最終的に彼がいつかこのような形でこの世を去ることは予想できないことではなかった。

 

彼のライフスタイルはどう考えても持続可能ではなかったし、もって生まれた性質・性格に由来していたので努力でどうこうできるものでもないと最終的に分かったから。

 

最後の数年、本人はかなり苦しかったと思う。

 

どうやっても社会の仕組みに折り合いをつけていけない自分に長く苦しんでいた。

 

彼の社会生活への不適合具合は家族や友人でサポートできる領域ではなかったとも思う。

 

 

弟は永く生きるべきだったか

 

自分はこの答えが分からない。

 

もし私の実家がかなり太い余裕のある家であったなら、弟に金だけ渡して離れたとこで生きながらえさせることができたかもしれない。

 

残念ながら我が実家はそのような裕福な家ではない、少々余裕があったとしても、それを良しとはしないタイプであろう。

 

祖母は社会不適合の弟を不憫に思い、説教しながらも度々まとまったお金を渡して支援していた。

 

そのような支援を受け続けながら、現実社会と乖離した状態で、本来であれば持続不可能なライフスタイルを続けながら生きながらえるというのは生き物として正しいのだろうか?健全な生き方なのだろうか?

 

正しいも誤っているもないし、その人生が幸福かどうかはすべての人間が自らの価値観で決めることなのだけど、とにかくそのどこまでも支援し続けるという選択肢は我が家にはなかった。

 

もっと弟に優しくしておけばよかった、もっと時間と気持ちに余裕をもって弟の話を聞いてやれば良かったと思う一方で、

 

その支援にはキリがないし、最終的には自分で人生の問題を解決していくしかないのだからどうやっても結果は変わらなかっただろうという諦めの気持ちが本音。

 

おれは2歳の時から沢山弟と遊んだし、ケンカしたし、深く会話もしてきた。

 

 

家族も私も、これが弟の持った運命だったのだと解釈するしかない。

 

 

今考えていることはシンプルに弟の分も強くしぶとくこの世を生きるのが自分にできることなのではないか、ということ。

 

弟が見れなかった景色や音楽、経験をたくさん見つけて、あの世で土産話を聞かせてやりたいと思う。

 

この世での務めを終えた弟が、今は苦しみのない世界で好きな音楽やお菓子に囲まれて幸せに生きていることを願う。