"マイホーム"
英字表記すると"My Home"
直訳すれば "私の家"
そう、それ以上でも以下でもない
しかし日本で使われる(またはかつて使われていた)"マイホーム"という言葉には独特の意味合いやニュアンスが感じられる
なんというか、古き良き近代日本を感じさせる響きだ。
「夢のマイホームを手に入れた」
という響きなどは郷愁やノスタルジーを感じさせる独特の響きだ。
この一文から色々なことが連想できるよな。
私が"マイホーム"という言葉からイメージできるのは、ベタだけど下記のようなイメージである。
「社会に出て一生懸命働いた一家の大黒柱が、一定の信用力と貯蓄を得たうえで、家族がいることを前提に新築の一戸建てを買う。
この家は可能な限り、予算の許す限りその時点でのこだわりを盛り込んで選びぬき、簡単に売り飛ばしたり引っ越したりすることを前提にしていない、いわば終の住処としてこの地に根をはって生きるぞ、人生をかけてローンを支払っていくぞ!という決意の表明。
これからローンを支払っていくことは家族の終の住処を守ることと同義。大切なマイホームを守ることは家族を守ることと同義。これから少々の理不尽や苦労があろうとも、小遣いが少々少なくなろうとも、私は必死に働くぞ。これ即ち責任感ある一人前の世帯主の象徴」
重テェ、なんて重たいんだ。
こんなの流動的な現代社会を生きる若者にはとてもじゃないが受け入れられない重たさだ。
ここ十数年、やたらに長期の住宅ローンを組むことに批判的な論調があるとかないとか。
収入は大して上がらない、5年後もどうなってるか分からんのに35年ローンを組むなんて、正気の沙汰じゃない、みたいな奴ですね。
特に氷河期世代以下の方々に特にこの価値観傾向があるのかな、と感じる。いや知らんけど。
思うに住宅ローンを組んで"マイホーム"を買うという行為への現代人の抵抗感や反発とは、
先に述べた"ちょー重たい"マイホームを持つ典型的イメージへの反感なんだろうと思う。
本当に反発するべきもの
仮にそうだとすると、現代人は反発する対象を間違っていると思う。
住宅ローンやローンで買わねばならない庭付き一戸建て住宅が悪なのではなく、
一般大衆の頭に組み込まれた「長期ローンを組める信用と収入があり、立派な家を買うという一大決心をした人は一人前の立派な大人」という昭和の価値観、
または住宅会社のマーケティングが生み出した家族が待ってる立派な家を持つイメージに嫌悪感を持っているだけ。
そんな価値観をオレらに押し付けるな!ということだろう。
もしくは批判者は心の奥でその昭和の"マイホーム幻想"イメージを結構まにうけており、その理想を実現できない自分の人生への怒りを住宅ローン制度や立派な戸建てイメージにぶつけているのかもしれない。
この話から何を言いたいかというと、
人はときどき自分が本当に憎むべきものを間違えるということ。
憎むべきはCMやドラマで大衆に植えつけられた非現実的なマーケティングイメージであり、
それが理想のかたちなんだという自分達の思い込みだということ。
住宅ローンや奨学金というのは客観的に素晴らしい制度である。
優遇された低い利率を支払うことで未来の価値を現在に実現できるレバレッジの魔法だ。
このようなローンの仕組みが不幸を生み出しているようにメディアはかき立てることがあるが、そうではなく利用者がその仕組みをうまく使いこなせていないだけ。
ローンを支払っていくことができない自分の人生への怒りを便利な制度にぶつけているだけだ。
話がそれたが、"マイホーム"とはただの私の家であり、それ以上でも以下でもない。
暖色の照明が備えられた立派で小綺麗な玄関で、家族に迎えてもらう必要などない。
僕らが戦うべきなのは自分達の勝手な思い込みだ。
そんな思い込みや事実と乖離したただのイメージから自由になろう。
辛いけれど、現実的に考えよう。
そうすれば、自分らしく生きられる。
終わり