アメリカ駐在生活 はやく日本へ帰りたい

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アメリカ駐在生活892日目 アメリカ人をFireするパワーが欲しい

 

You Are Fired!

 

 

この半年くらいローカルのアメリカ人スタッフにイライラし過ぎて爆発しそうになることが何度もあった。

 

一番は自分の語学力のなさからくるフラストレーションなんだけど、これを差し引いても並以下のアメリカ人と仕事をすることは生真面目な日本人の自分には信じられないストレスを生み出す。

 

(まぁ、これは日本人もアメリカ人も関係ないのだが、能力問題に加えて文化差異の問題が加わるため)

 

自分にも足らないことが山ほどあることを謙虚に踏まえて深呼吸しても、

 

 

一部のアメリカ人の雑さは私の血圧を日々上げてくれる。

 

 

例えば、

 

 

・何年も繰り返しやっている作業なのに二回に一回は転記ミスをする(数字を右から左に移すだけの作業で)。

 

 

・何年も会社にいるのに簡易な稟議プロセスを覚えない(毎回どうやったらいいか聞いてくる)。

説明している時間で自分がやった方が3倍早く終わる。

 

・作業のクオリティは小学生並みのくせに、ミスを指摘すると全く悪びれず一丁前のロジックで反論してくる(日本人が最も嫌うことの一つ)。

 

 

 

標準的なアメリカ人がこのレベルであるとすれば、アメリカでITが発達するのは本当に納得がいく。

 

 

よっぽど事務処理はシステムに処理させた方が確実に思える。

 

 

一部のスタッフに対して何度私は

"You are fired!!!!(D.トランプばり)"と言いかけたことか。。。

 

 

このアメリカの地で自分にいつか人事権のパワーが持てたとしたら、生意気なローカルスタッフにこう冷たく言ってやりたいと日々思っている。

 

 

"You can choose your work place anytime.

You have right to go anywhere if you don't like this task. Please follow my instructions if you want to stay here"

 

 

 

 

アメリカには人を育てる風土がないのか?

 

 

 

職場でアメリカ人を見ていて不思議なのは、バカみたいなミスをやらかしても、明らかに誤った認識で情報を伝えても誰もそれを咎める様子がないことだ。

 

 

子供の小学校教育を見ていても、はたから見ると「アナタはありのままでいいのよ、何が正解かなんてどうでもいいのよ」が基本スタンスのようで、先生らに思いっきり叱られるということはまずないようだ。

 

 

(息子の学校では、間違ったことや好ましくない行動をした子は各生徒の持ちポイントが減点されるそうだ。逆に良い行いをすればポイント加算され、一定ポイントが貯まると景品や特典に使えるとのこと笑)

 

推測するにアメリカ人はアホな人をシゴいて育てて改善していくみたいな考えはなく、

 

 

初めからポテンシャルを持った人を選りすぐって一定のプログラムを受けさせ初めから特別扱いする、みたいにかなり割り切っているように見える。

 

アホが教育されない一方で、優秀なアメリカ人は本当に日本人が目じゃないくらい洗練された優秀さがある(実務能力のみならず、視点や考え方含め)。

ときに日本人の中間管理職や役員が原始人に見えるくらいに米国のリーダーはプロフェッショナルだ。

 

 

 

外部の会社を見ていると、責任者のポジションに不適格・期待したパフォーマンスに達していないと分かればカジュアルに人を入れ替える。

 

 

 

そのポジションに相応しいと思われる経験値や技能があると思えば、パッとクビにして次の人と入れ替えてしまう。

 

 

 

組織作りはパズルのピース入替をやっているようなものだ。

 

 

これは客観的に非常に分かりやすくリーズナブルであり、この流動性の高さがアメリカ経済の強みなのだろうけど、日本人的にはあまりにドライで恐ろしく見えることもある。

 

 

でも大半のアメリカ人はすごくロジカルに割り切っている。

 

 

こういう社会の雇用前提を踏まえると、

 

 

アメリカ人スタッフの成長の鈍さもしょうがないのかなと思えてくる。

 

 

アメリカ人「オレのポジションと給与はこれくらい、だからオレの裁量はここまで。

それ以上難しいことは考えないし、やらない。

嫌ならすげ変えれればいいんじゃん?

でも自分がまだクビになってないってことは、会社はこのパフォーマンスでいいという判断をしてるということだよね?

なぜ君はそんなに怒っているの?

You can choose your employees anytime. You can fire me anytime if you are not satisfied with my performance.

 

This is USA

 

私は人を変えようと思うことをやめた。

 

早く日本へ帰りたい。

 

終わり

 

 

 

 

 

 

アメリカ駐在生活 878日目 金利のある世界 - 利率4.30%の預金!

 

金利のある世界

 

久しぶりにアメリカっぽいことを書こう。

 

少し前に年間利率4.30%の口座を発見したので、ここに余剰資金を預けて運用していくことにした。

 

低成長国日本からきたピュアな日本人である自分にとって、元本保証で利率4.30%というのは驚愕のレートであり

 

 

「すげー!、、、、でもどうせいろんな制約があるんだろうな」と考えていた。

 

 

この商品のサイトをみてみると下記条件を売りにしていた。

 

  • 年間利率 4.30% (日次複利計算ベースで4.2175%/年)
  • 最低預入額の制限なし
  • 預入期間の制限なし(※預けた期間日割りベースで利息を受け取る)
  • 口座維持手数料なし(※アメリカの銀行では一定額以下の預金・一定条件を満たさない場合口座維持手数料が発生することが多い。しばらく口座にお金を入れていないと勝手に解約されるとかあるらしい)

 

 

High-Yield Savings Rate: 360 Performance Savings | Capital One

 

この口座は25万ドルまでの預金保護保険がかかっており、通常の銀行預金と同等元本は一定額まで保証されているそうだ(金融機関破綻時)。

 

 

デメリットというか縛りの条件としては、銀行側がすぐに預金が引き出されないよう、外部への1送金あたり$30のコストがかかるようになっている点と今後銀行の裁量で利率が変更される可能性があるくらいだ。

 

 

しかし随時の預金引き出しが制限されているわけではなさそうだ。

 

 

外部への送金手数料は1万ドル預けていれば1か月で1回送金の元が取れるコストなのでさして問題ではない。

 

 

これは何がなんでも試すしかねー。

 

 

いざ実践

 

 

私はこの好条件を知ったとたん迷わず口座開設の手続きをし、すぐに余剰資金をこの口座にぶち込んだ。

 

 

本当に利息つくのかなとちょこちょこ見ていると、どうやら日割りベースで毎月1日に利息が発生しており、計算してみるとマジで4.3%ベースで増えているではないか!

 

 

知識としてアメリカにはこのくらいの利回りが保証された金融商品はざらにあると知っていたがそれでもこの事実は驚きだった。

 

今は米国の高金利政策もありなおさら商品数は増えているのだろう。

 

考えてみればアメリカの長期債利回りは5%程度になっているのであり得る話である。

 

 

日本とのギャップ

 

 

それでも実際に米国で運用してみて、肌でこの利率を経験したとき、

自分の中では日本にいたときの社会前提がひっくり返ってしまい衝撃的であった。

 

これまで見てきた日本の金融機関の一般庶民向け金融商品は、

 

がちがちの預入れ条件や期間縛りを強いておいて利率は1%にも満たないのだ。

 

嫁が始めた某保険会社の学資保険はかなり長期の引き出しペナルティ期間があるにも関わらず、年利1%もなかったように思う。

 

"0.2%(年利ベース・3ヶ月だけ)の利息つきます!"

 

みたいな銀行のキャンペーンがあったときに預金が殺到していたニュースを見たことがあるが、アメリカの利率を知るとこの条件がショボすぎて本当に悲しくなってしまった。

 

アメリカは基本的にインフレしている社会なので、このような運用をしておかないとキャッシュの価値は日々目減りしてしまうため、考えてみれば当たり前の利率差異なのかもしれないが、

 

日本だって沢山輸入しているのだから実質は見えないところでかなりインフレ影響を受けているはずだ(=世界の物価上昇影響を受けている)。

 

 

加えて微々たる昇給しかなく、この昇給を追い越す勢いで社会保険料や年金などの実質的な税負担が年々増えていることを踏まえると、日本に上記のような手軽なインフレ対策となる資金運用方法がないことが地獄のように思えてくる。

 

 

給料上がらない、家に投資しても上がらない(一部のマンション除きたいてい下がる)、株に投資しても上がらない、ビジネスを起こすリスクは高い、しかし世界の物価上昇影響は受ける

 

 

少し前の日本はこんな社会だったのだ。この経済の部分だけを客観的にみると恐ろしい

 

 

世界にはまだ知らない有利な資金運用がたくさんある(はず)

 

伝えたいことは上記。

 

私は利率/利回りが高いから単純にいいこととは思わない。

 

リターンには常に相応のリスクが存在しており、このバランスがおかしいものはたいてい詐欺か犯罪である。

 

表面の数値だけをみずになぜこの利回りが実現できるのか?どんな仕組みでなりたっているのか?

 

を自分の頭で考え、計算し、リスクテイクすることはあらゆる投資において必須の基礎スキルである

 

 

日本はモノを生産する国から、過去の生産から得た富を使って投資益で潤う社会に移行していっている。

 

安く効率よく生産する、ではとっくに勝てなくなっているのだから。

 

また、日本は今後徐々にインフレを許容していく流れになるであろう。

 

 

上記のような国家トレンドを踏まえると、日本人は一般市民であってもお金の性質/科学についてより学習し、うまく資金をマネージしていくリテラシーを強化することが求められるステージに入っていくだろう。

 

 

世界にはいろんな投資機会があり、少しの経済知識と語学力、行動力があれば日本にはない有利な経済条件にアクセスできるということが今回分かった。

 

 

駐在を通じて今回のような米国の金融常識にアクセスできたことは感謝すべき経験である。

 

 

会社は嫌いだけど、この駐在の機会をくれたことには素直に感謝するわ。

 

 

 

そんなことを考えながら私は今日も思う

 

 

 

早く日本へ帰りたい。

 

 

おわり

 

 

アメリカ駐在生活 830日目 “マイホーム”のニュアンス

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"マイホーム"

 

英字表記すると"My Home"

 

 

直訳すれば "私の家"

そう、それ以上でも以下でもない

 

 

 

しかし日本で使われる(またはかつて使われていた)"マイホーム"という言葉には独特の意味合いやニュアンスが感じられる

 

 

 

なんというか、古き良き近代日本を感じさせる響きだ。

 

 

「夢のマイホームを手に入れた」

 

 

 

という響きなどは郷愁やノスタルジーを感じさせる独特の響きだ。

 

 

この一文から色々なことが連想できるよな。

 

 

私が"マイホーム"という言葉からイメージできるのは、ベタだけど下記のようなイメージである。

 

 

 

「社会に出て一生懸命働いた一家の大黒柱が、一定の信用力と貯蓄を得たうえで、家族がいることを前提に新築の一戸建てを買う。

この家は可能な限り、予算の許す限りその時点でのこだわりを盛り込んで選びぬき、簡単に売り飛ばしたり引っ越したりすることを前提にしていない、いわば終の住処としてこの地に根をはって生きるぞ、人生をかけてローンを支払っていくぞ!という決意の表明。

これからローンを支払っていくことは家族の終の住処を守ることと同義。大切なマイホームを守ることは家族を守ることと同義。これから少々の理不尽や苦労があろうとも、小遣いが少々少なくなろうとも、私は必死に働くぞ。これ即ち責任感ある一人前の世帯主の象徴」

 

 

 

重テェ、なんて重たいんだ。

 

 

 

こんなの流動的な現代社会を生きる若者にはとてもじゃないが受け入れられない重たさだ。

 

 

ここ十数年、やたらに長期の住宅ローンを組むことに批判的な論調があるとかないとか。

 

 

収入は大して上がらない、5年後もどうなってるか分からんのに35年ローンを組むなんて、正気の沙汰じゃない、みたいな奴ですね。

 

 

特に氷河期世代以下の方々に特にこの価値観傾向があるのかな、と感じる。いや知らんけど。

 

 

思うに住宅ローンを組んで"マイホーム"を買うという行為への現代人の抵抗感や反発とは、

 

 

先に述べた"ちょー重たい"マイホームを持つ典型的イメージへの反感なんだろうと思う。

 

本当に反発するべきもの

 

 

仮にそうだとすると、現代人は反発する対象を間違っていると思う。

 

 

住宅ローンやローンで買わねばならない庭付き一戸建て住宅が悪なのではなく、

 

 

一般大衆の頭に組み込まれた「長期ローンを組める信用と収入があり、立派な家を買うという一大決心をした人は一人前の立派な大人」という昭和の価値観、

 

または住宅会社のマーケティングが生み出した家族が待ってる立派な家を持つイメージに嫌悪感を持っているだけ。

 

そんな価値観をオレらに押し付けるな!ということだろう。

 

 

もしくは批判者は心の奥でその昭和の"マイホーム幻想"イメージを結構まにうけており、その理想を実現できない自分の人生への怒りを住宅ローン制度や立派な戸建てイメージにぶつけているのかもしれない。

 

 

この話から何を言いたいかというと、

 

 

人はときどき自分が本当に憎むべきものを間違えるということ。

 

 

憎むべきはCMやドラマで大衆に植えつけられた非現実的なマーケティングイメージであり、

 

 

それが理想のかたちなんだという自分達の思い込みだということ。

 

 

住宅ローンや奨学金というのは客観的に素晴らしい制度である。

 

 

優遇された低い利率を支払うことで未来の価値を現在に実現できるレバレッジの魔法だ。

 

 

このようなローンの仕組みが不幸を生み出しているようにメディアはかき立てることがあるが、そうではなく利用者がその仕組みをうまく使いこなせていないだけ。

 

 

ローンを支払っていくことができない自分の人生への怒りを便利な制度にぶつけているだけだ。

 

 

話がそれたが、"マイホーム"とはただの私の家であり、それ以上でも以下でもない。

 

 

暖色の照明が備えられた立派で小綺麗な玄関で、家族に迎えてもらう必要などない。

 

僕らが戦うべきなのは自分達の勝手な思い込みだ。

 

 

そんな思い込みや事実と乖離したただのイメージから自由になろう。

 

 

辛いけれど、現実的に考えよう。

そうすれば、自分らしく生きられる。

 

 

終わり

 

 

アメリカ駐在生活 818日目 クレジットカード3枚止まる!早く日本へ帰りたい。。。

Scam

 

ばっちりど真ん中でScamにひっかかり、クレジットカード3枚を止めちゃいました、どうも米国駐在員です。

 

※Scam(スカム)=詐欺を目的とした活動全般(個人の情報やお金をサギることを目的とした偽サイト、偽テクストやEメール)

 

人生初めてひっかかってしまった。マジショック。

 

スカムのテキストメッセージからアクセスした偽サイトにしっかり自らカード情報を入力してしまった。

 

今回のケース

 

米国ではクレカの情報詐取は日常茶飯事のようで、

 

カード会社に問い合わせるとすぐに不正利用アカウントの取り消しと再発行に動いていただけるので結果的に格別の被害はなく、各サービスのカード情報変更の手間だけで済んだ。

 

が、異国の地にいると違和感に気づけず詐欺にかかる可能性が高いことを、今回のケースで身をもって理解した。ほんとど真ん中でひっかかったんだよな。。。

 

世の中のために一つのケースとして記録しとこう

 

①オンラインで靴を購入(このサイトで配送住所などを入力)

②翌日、配送会社(USPS)からテクストメッセージを受信。

「配送住所が正確でないため、下記リンクから再度配送先情報をご入力ください」

という内容。Confirmation Emailを見ても正しく入力しているはずなのだが、

「まぁアメリカ適当だからなんでも起こりうるしな」、と考え何も疑わずテキスト内のリンクへアクセス

※米国では過去2度ほど配送ミスの被害をくらっていたので全然あり得るなと思っていた

③リンクへ入ると、USPSの配送先再入力画面へ移行。素直に住所入力。

すると「本来行くべき別の物流倉庫に荷物が移動しているため、再度配送ルート調整に$0.3かかります、クレカ情報を入力してください」の表記

俺が負担するんかい!と思いつつも

 

「まぁアメリカのサービス適当だしな。。。」

 

と何も疑わずにクレカ情報入力。すると、

 

「カード情報がアクセプトできません、別のカードでお試しください」の表示

 

「は?今日もカードはちゃんと使えたのにおかしいな。。。でもアメリカクソだしどんなトラブルでも起こりえるしな。。。」

 

と考え、別のクレカ2枚でトライするも受付できません、のメッセージ。

④むかついてそのまま手続きをやめ放置

もう荷物届かなくていいか、という気分になる

⑤翌日、靴を購入したサイトから``荷物が発送されました``のメッセージと追跡リンクが届く。

追跡してみると、きちんと正しそうな配送ルートが表示されている。

ここで「あれ?」となる。何が正しい情報なのか分からず不安になりイライラする

⑥2日後にクレカ会社から「怪しいTransactionがあります。これはあなたの取引ですか?」のメッセージが届く。

 

その後たて続けに2枚のカードも不正使用っぽいものが確認される。

 

うち1枚は日本でしか使っていないはずのクレカでの不正使用だったので、やっちまった!とここで詐欺られたことを確信する。

 

⑦靴は無事に届く

 

 

洗練されたオンライン上の詐欺(Fraud)

 

いや、今回のFraudは本当に絶妙だった。

 

最初のテクストが届くタイミングも絶妙だったし、配送情報再入力のサイトも何の違和感もいだかないくらいナチュラルな作りであった。

 

米国はITサービスが日本とは比べ物にならないくらい洗練されて進んでおり、

 

公的な手続きも大部分がオンラインですぐに完結できる。

 

そういう社会の前提もあって、何の疑いもなく手続きを進めてしまったわけだ。

 

米国はIT詐欺の分野もかなり進んでるわ!と思いました。

 

 

そもそもなんで俺が靴を買ったタイミングを知ってんだよ。

 

 

ネイティブの人らであれば違和感に気づくのかもしれないが、異邦人の私は全く違和感に気づけなかったので相当ショックだった。

 

 

行きつけの床屋さんにこの話を伝えると、まぁ割と普通にありますよねって感じ。

 

巧妙に作られたアパレルの偽サイトを通じてカード情報を盗まれたりもあるあるパターンらしい。

 

クレカ会社もこのような詐欺には慣れっこなので日本よりはるかに迅速に再発行の処理が進んだ感じ。

 

 

これから日本もあらゆることがオンラインに切り替わっていく中で、似たような詐欺の件数は増えるかもしれない。

 

 

え、すでに日本でも似たような事例って沢山あるのかな?おれのITリテラシーが低かっただけなのかな?

 

 

 

とにかく、みんな気を付けような!

 

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

アメリカ駐在生活804日目 金を溜め込むのは無能、の時代

 

貯蓄大好き

 

米国にきて最も驚いたことの一つがほんとに経済が「インフレ」しているということ。

 

 

経済用語としてのインフレーションという言葉を知らない人は少ないと思うが、私にとってインフレとは教科書の中で、もしくは近代史に関する書籍の中にしか存在しない概念・現象だった。

 

 

私の世代はまさに日本のデフレトレンドど真ん中の世代である(90年代~00年代に青春を過ごす)。モーニング娘世代だ。

 

 

消費において"安いこと(品質の割に)"が最優先の評価基準であり、正義であった。

 

世の大衆向けメーカーはひたすら原価や人件費を削り、付加価値を増す方向ではなく、一度定着した販売価格をいかに死守するか、というポイントに涙ぐましい努力を積み重ねてきた時代を生きた。

(※このデフレ時代の弊害で私たちは「(価格が)高い」「(価格が)安い」という言葉が本来の意味で使えなくなってしまった)

 

 

しかししかし、私がいま暮らすアメリカを含むその他の海外諸国では、インフレというのは日常的に起こっている現象であり、

 

社会の仕組みは基本的にインフレしていくということを前提に組まれているように思う。

 

私は仕事柄米国不動産の市場を見る機会が多いため、このインフレトレンドを把握することは非常に重要なのだ。

 

先月$3.5で買った牛乳が翌月には$4.5になっている(28.6%)。

 

2年前まで$2/ガロンで入れていたガソリンが$4/ガロンにまで跳ね上がる(2倍)。

 

昨年40万ドルで売られていた一戸建てが、平気で50万ドルにまで跳ね上がり、それでも買い手が殺到している。

 

中古車需要が高まり、50,000キロ走行三年型落ちのスバルが、最新モデルの新車より高くなる

 

アパートには早く入居すれば賃料はそのままだが、入居を先送りすると高くなる。

 

アパート更新時に大家は平気で10%以上値上げしてくる。

 

 

こんなにフレキシブルに、ダイナミックに物価が変化する社会を経験したことがなかった私は、

マジのマジで衝撃だった。

本当の市場経済が機能する社会に感動し感激した。

 

 

これがまさに需要供給の法則であり、時間の割引価値なのだと肌で理解することができた。これが米国の常識なんだと。

 

 

インフレ社会における預貯金の価値

 

 

日本でもインフレのトレンドが消費者の目に見える形で表れてきている時代になったと思う。

 

あらゆる原材料はコロナ以降劇的に値上がりしており、もはや企業の努力のみでは相殺できず、多くの企業が値上げ(エンド価格転嫁)に踏み切りだしている。

 

日本社会は"価格が変動する(インフレする)"リスクをこれまで以上に取らねばならない時代に入ってきているのだと思う。

 

我々デフレネイティブ世代にとっての未体験ゾーンをこれから生きねばならない。

 

消費者物価指数の推移

日本の消費者物価指数(年率)(推移と比較グラフ) | GraphToChart

 

このようなインフレする社会で"貯金"とはいったいどのような位置づけになるだろうか。

 

これまで我々デフレ世代にとっては現金をひたすらため込み、握りしめておくことはある程度合理的な戦略であった。

 

株価が下がり続け、待っていれば同品質でより安い商品が出てくる社会であればそれが賢い選択なのである。物価も給料も上がらない中では将来に楽観的になることもできず、とにかくできるだけため込んでおきたくなる。これが今までの日本社会。

 

 

しかしインフレ社会では真逆になる。今使わないと将来はより高いコスト(機会損失含む)を払うことになる可能性が高くなる。

 

 

必要以上に現金を握りしめておくことは、お金を腐らせている行為に等しく、ひたすら買いだめた食料品を冷蔵庫の奥で腐らせることと同義。

 

 

ここ数年政府が国民にやたら投資を推奨しているのは、政策でインフレさせようとしている中、今までのように貯金だけし続けていると将来マジで死ぬよ!

 

金融商品とかでちゃんとヘッジしとけよ皆の衆、ってこと。

 

つまりこれからは明確な目的なくお金を貯め続ける行為は"無能"の戦略になるということ。

(※節制し貯蓄をする習慣がダメなのではなく、お金を動かさずため込み続けることが無能)

 

これが最近アメリカで暮らしながら考えていること。

 

 

※うろ覚えだがアメリカの金融機関では、活用できる資金を多く残して手堅く運用をしていると「リスクとってなさすぎ、もっとポジション(リスク)をとらんかい!」と怒られるのだと昔何かで読んだが、米国にいると本当にお金をそのまま置いておくことの機会損失を肌でひしひし感じまくれる。

 

 

俺たちモー娘。世代(デフレ世代)、新たな時代のルールに適応しなければならない時が来たのだ。

 

 

日本のモー娘。世代よ、もっとリスクをとれ!ポジションをとれ!

何でもいいから投資しろ!新しい時代を生き残れ。

 

 

 

と言いつつも、溜まったお金に一喜一憂する私は完璧なデフレ体質ジャパニーズ。

 

 

おわり

アメリカ駐在生活 798日目 "育ち"に関する劣等感

 

生まれ育つ環境

 

 

先日同僚の駐在員らと数人で飲み会をした。

 

アメリカにいたとしても日系サラリーマン数人が集まれば、

 

会社のグチ、組織の問題点、財テク、これから想定される本社の人事などお約束の話題で盛り上がってしまう。

 

その場は完全に絵にかいたようなリーマンがくだをまく、まさに日本の安居酒屋と化す

 

職場のアメリカ人にはあまり見せたくない場面だ。

 

健全なアメリカ人にはあまり理解できない時間の使い方かもしれないが、

 

日々日本のハイコンテクストな「空気(Kuu-Ki)」や日本人独特の「曖昧さ(Ai-Mai)」をくみ取りながら、米国の合理論と戦わねばならない日系会社員のストレス感をナショナルスタッフに説明するのは難しい。まあ、彼らは知る必要もないことだけど。

 

 

同僚らとの育ちの違い

 

今知ったわけではないのだが、私以外の駐在員同僚は8割が帰国子女であることを思い出した。

 

期間の長短に差はあれど、みな親の仕事の都合で海外に居住した経験があるひとばかりであることを思い出した。

 

 

海外居住の経験からの流れで海外駐在に興味を持った、ポジティブな印象を持っていた、いつか自分も、という人が大半であった。そこで言葉を身につけた人も多い。

やはり親御さんもそれなりの大企業で勤めていた、というパターンが大半。

 

 

私はといえば、福岡の決してお行儀の良いエリアとは言えないヤンキー/ヤクザやシングルマザーばかりの地域で育ち、自分の人生で海外に暮らす可能性などほんの一ミリも想像したことがない人間である。

 

 

自分の直系親族内で大学を出た人を見たことがない(実父は高卒、養父は中卒)。

 

だから大学などの高等教育がどのように人生に影響するのか考える機会はあまりなかった。海外留学を経験した地元の友人など一人もいない。

 

 

私の歯並びは矯正しないまま生きてきたのでよろしくない。銀歯もばりばり。

 

 

アメリカ人はみな真っ白のキレイな歯並びだし、他の同僚もみなキチっとした歯並び。

人生で初めて歯並びを気にするようになった。

 

 

 

こういう人生バックグラウンド/育ちの違いを知ったときに、正直少し引け目を感じたことは一度や二度ではない。

 

 

が、あまりその環境の微差については考えないようにしてきた。

 

五体満足で生まれておきながら、

 

「自分にはあれがなかった、これがなかった!だから俺は成功できない」

 

みたいな泣き言を言うのはこの世で最もダサい発言のひとつと思っているから。

 

むしろそういう育ちや自分の能力に関する劣等感というのは、必死で自分を高めようとする原動力・ハングリーさになってくれるのでおいしいな、くらいに思っていた。

 

 

 

 

とはいいつつも、その積み上げてきた"育ち"と

 

その育ちから生み出される"良い思考/習慣"を積み上げてきた奴らに対して

 

劣等感をもつことはある。

 

 

 

あぁ、やっぱり自分は根本の育ちと性根が違うな、と。

 

 

 

こういう育ちの差が、具体的に人生のどこにに現れるのだろうか?

ということは常々関心をもって観察していたところだ。

 

 

文化的資本の格差

 

 

数年前にネットをうろうろしているときにある記事でこの言葉を知った。

 

 

これは自分が社会人になって、たまになんとなーく感じていた周囲との違いに関する違和感を

 

見事に表現してくれた言葉・定義であったのでかなりインパクトがあった。

 

 

子育てをしていて本当に日々感じるが、

 

 

親がどのような言葉を使い、何に関心を持ち、どんなうしろ姿を子に見せているか、どんな問いかけをするかというのは間違いなく子供の価値観や人格形成に大きな影響を与えている。

 

家が裕福だったか貧乏だったか、ということもそうだけど親や親類、育ったコミュニティの常識がその人間の初期設定基盤になるといことは感覚的に納得できる。

 

 

海外旅行やレジャーの楽しみ方、文化や歴史・アートへの関心、健康維持習慣への関心、家にある本の量・内容、他人や社会への適切な距離の取り方、

 

 

 

文化的資本と呼ばれる物事への関心の深さは一般に教養と呼ばれ、人生の質に大きいインパクトがある。

 

 

こういう物事への関心の積み上げが文化的資本とよばれるそうだ。そして文化的資本はある程度親や親族から引き継がれていく傾向があるようだ、当たり前だ。

 

 

何というか、大人になって知り合った同僚や知り合いとの間で感じていたうまく表現できない感覚の違い、

 

 

つまり育ちの差の正体はこれだったのか!と勝手に断定しすっきりした。

 

 

 

子供はわたしの行動をみている

 

 

こういう育ちの差異がいくらかあったとしてそれがなんだ、という話なんだけど、

こういう概念をなんとなく理解しておくだけでも子供への接し方を考えるうえでは有益だと思ったよ。

 

 

子にはお金をかければいいってもんじゃない、

 

 

私たちの日々の一挙手一投足、無意識に行っている言動や姿勢が子供の人生に影響を与えていると考えれば、おれの猫背も少しはシャキッとするんじゃないかな。

 

 

今さら人間は変えられないけど、少しでも子供には良い影響を与えたいと思ふ。

 

 

おわり

 

 

 

アメリカ駐在生活 770日目 弟が死んだ日

 

 

先日夏の一時帰国から米国に戻ってきた。

 

前回の帰国からそこまで長い時間はたっていないものの、激務で体調をやや崩してから初の帰国であったので、これまで以上に楽しみにしていた機会であった。

 

本当に来週自分が死ぬかのように移動しまくって人に会いまくってきた。

地元の友達やお世話になった元上司、特別仲良くしている職場の後輩らに会ってきた。

家族とも旅行に行ってきた。

 

20代の自分だったらビビって使えないくらい沢山のお金を短期間で使ったけど、

海外駐在で疲れきった心を癒すためなら何のためらいもなかったし、実際最高に満足できた。

 

おれはアメリカで全く娯楽に金を使っていないのでお金は溜まっているし、今や不動産投資と駐在パワーによって使ったお金はすぐに取り返せるのだから。

 

これが30代の力か。。。我慢してきた甲斐があるぜ。。。

 

日本での物価をいちいちドル換算して、

 

「このクオリティでこのお値段!やすい!、安いよ日本、安すぎコスパ良すぎ!!おれはなんて素晴らしい国に生まれたのだ」

 

と感動するまでが今日の米国駐在員の定番セットである。

そんな楽しいリラックス時間を過ごす中で弟の話を家族から聞いた。

 

 

弟が死んだ日

 

家族を嫁実家において、自分一人で実家に帰った。

 

 

1週間かけてさんざん地元の友人らと会い散らかしたのちに、最終日に両親と末の妹と4人で夕食を共にした。

 

 

キムチ鍋だったが、家庭で食べる日本の食材はなぜだか優しく、身に染みてうまかった。

 

 

その夕食の場で実家の両親から弟が亡くなったことを聞かされた。

 

 

具体的な時期を書くことは避けるが、すでに弟が死んでから数か月が経過していること、

 

家族だけで葬儀を行い火葬まで済んでいることをこの日知った。

 

もちろん私がアメリカで働いているときの出来事だ。

 

この事実を聞いたとき、2つの感情が自分の中に沸き上がった。

 

一つは唐突に起こった出来事が頭で理解できても、身体で理解できず動転し

何とか理性の理解に体の理解が追い付こうとしている感覚。

 

二つ目は「あぁ、ついにこの日が来てしまった」という感覚。

 

 

弟の火葬前の写真を見せてもらったとき、本当に彼がこの世からいなくなったことを理解し、自然と涙が流れて落ちてきた。

 

まるで自分の一部を失ったかのような感覚だった。

 

 

なぜ家族は自分にこの事実をタイムリーに教えてくれなかったのか?

 

家族としては米国に家族といる自分は気軽に帰ってこれないであろうこと、

 

突然のことで家族も初めての事務的対応に追われ余裕がなかったこと、

 

弟がなくなるに至った経緯は他人から見るとやや複雑であり、

 

結果的には弟自身による自死であったため、会社での立場も考え周囲や私に伝えなかったと、

 

上記のような話。

 

私はシンプルに自分が弟見送りの場に立ち会えなかったことが死ぬほど辛かった。

 

30年以上兄弟として生きた人間は、自らの判断によりあっという間にこの世から消え去っていた。

 

弟は私同様、勉強やスポーツ等の正統派の道ではあまり頑張らなかったものの、私の影響で音楽やギター、スケボー、海外ワーホリを楽しんでいた。私のバンドでも何度かライブしたことがある。

 

やや内省的であり、音楽や映画に人並み以上にはまってひたすらアート・サブカルコンテンツを楽しみ、このような趣味を通じて自分自身を探求していた。

 

小学生の心のまま大きくなったようなピュアさがあったので、社会のルールやしがらみに合わせうまく自分をアジャストすることができないタイプであった。

とにかく金やスケジュールの管理ができないタイプであった。

 

地元を離れ、社会でしぶとく生き残り、人並み以上にお金を稼ぐことや0から資産を築いていくことに奮闘していた私は度々帰省のたびに弟に厳しく接していた。

 

彼のルーズさが家族や私の友人に迷惑をかけたことも一度や二度ではなかったからだ。

 

かなりきつい言い方で弟を傷つけることもあったと思う。

それは世の中で負けないよう歯を食いしばって生きているつもりだったので、弟がちんたら生きていることが悔しく、自分に余裕がなかったのもあったと思う。

(実際彼は誰かに迷惑をかけようとしたり、傷つけていたわけではなく、ただ自分が思うままに生きているだけだった)

 

生活を改善するべく様々な紆余曲折があったが、最終的に彼がいつかこのような形でこの世を去ることは予想できないことではなかった。

 

彼のライフスタイルはどう考えても持続可能ではなかったし、もって生まれた性質・性格に由来していたので努力でどうこうできるものでもないと最終的に分かったから。

 

最後の数年、本人はかなり苦しかったと思う。

 

どうやっても社会の仕組みに折り合いをつけていけない自分に長く苦しんでいた。

 

彼の社会生活への不適合具合は家族や友人でサポートできる領域ではなかったとも思う。

 

 

弟は永く生きるべきだったか

 

自分はこの答えが分からない。

 

もし私の実家がかなり太い余裕のある家であったなら、弟に金だけ渡して離れたとこで生きながらえさせることができたかもしれない。

 

残念ながら我が実家はそのような裕福な家ではない、少々余裕があったとしても、それを良しとはしないタイプであろう。

 

祖母は社会不適合の弟を不憫に思い、説教しながらも度々まとまったお金を渡して支援していた。

 

そのような支援を受け続けながら、現実社会と乖離した状態で、本来であれば持続不可能なライフスタイルを続けながら生きながらえるというのは生き物として正しいのだろうか?健全な生き方なのだろうか?

 

正しいも誤っているもないし、その人生が幸福かどうかはすべての人間が自らの価値観で決めることなのだけど、とにかくそのどこまでも支援し続けるという選択肢は我が家にはなかった。

 

もっと弟に優しくしておけばよかった、もっと時間と気持ちに余裕をもって弟の話を聞いてやれば良かったと思う一方で、

 

その支援にはキリがないし、最終的には自分で人生の問題を解決していくしかないのだからどうやっても結果は変わらなかっただろうという諦めの気持ちが本音。

 

おれは2歳の時から沢山弟と遊んだし、ケンカしたし、深く会話もしてきた。

 

 

家族も私も、これが弟の持った運命だったのだと解釈するしかない。

 

 

今考えていることはシンプルに弟の分も強くしぶとくこの世を生きるのが自分にできることなのではないか、ということ。

 

弟が見れなかった景色や音楽、経験をたくさん見つけて、あの世で土産話を聞かせてやりたいと思う。

 

この世での務めを終えた弟が、今は苦しみのない世界で好きな音楽やお菓子に囲まれて幸せに生きていることを願う。